『ブリタニカ国際大百科事典』が誇る
歴史と伝統は、
各時代を彩る偉大な
寄稿者によって紡がれ、継承されてきました。
その2世紀あまりの時間をひもとくことで
見えるのは、
世界という舞台そのものの
「知の歴史」なのかもしれません。
銅版画家アンドルー・ベル、印刷業者コリン・マックファーカー、ウィリアム・スメリーがエディンバラ(スコットランド)にて百科事典の編集・制作を開始。
『Encyclopædia Britannica』(ブリタニカ百科事典)初版
第3版完成。
ジョージ・ワシントン、アレクサンダー・ハミルトンらがアメリカ初の購買者となる。
『Encyclopædia Britannica』第4版
『アメリカ』の項に「合衆国憲法」が掲載される。
エディンバラ大学教授M.ネーピアが編集に加わる。
「出版界のナポレオン」と呼ばれた発行人 A.コンスタブルが没し、初期のブリタニカが第6版をもって幕を閉じる。
発行人アダム・ブラックが教育への貢献を認められ、イギリス女王より騎士の称号を約束されながらも辞退。
『Encyclopædia Britannica』第8版
『Encyclopædia Britannica』第9版
The Scholar's Edition(学究に愛された版)として名高い。
セント・アンドリュース大学教授T.S.ベインズやウィリアム・R.スミスが編集に携わる。
日本橋丸善で輸入販売が開始され、伊藤博文、尾崎行雄、徳富蘆花、犬養毅らが購入。
『Encyclopædia Britannica』第11版
ケンブリッジ大学出版局が発行母体となる。
アメリカ(ニューヨーク)とイギリス(ロンドン)の二大編集部体制を強化。
アメリカへ版権移行。
『Encyclopædia Britannica』第13版
第1次世界大戦直後に完成。
『Encyclopædia Britannica』第14版
シカゴ大学が全版権を取得。
Encyclopædia Britannica, Inc.設立。
『Encyclopædia Britannica』第15版
15年の編集期間を経て完成。
日本版『ブリタニカ国際大百科事典』初版刊行。
日本版『ブリタニカ国際年鑑』刊行開始。
CD-ROM版百科事典『Britannica CD』完成。
インターネット版百科事典『Britannica Online』サービス開始。
小学校・中学校向けデジタル教材『ブリタニカ・スクールエディション』提供開始
小学校・中学校・高等学校向けオンラインサービス『Britannica School』(英語)リニューアル
2018年12月6日 ブリタニカ百科事典 250周年
日本中全ての教育者、学習者に、最上の教育ソリューションを届けたい----
グローバル企業として、世界中の教育者、学習者と手を取り合い、
未来への架け橋となるべく進化し続けます。
The Prominent Contributors
さまざまな情報が氾濫するこの時代、
必要な情報をより正確に収集することが何よりも求められています。
大項目事典は約2500人、小項目事典は約1500人、国際年鑑は毎年約200人に及ぶ
学者、大学教授、記者・ジャーナリスト、評論家等による執筆のもと、信頼のおける情報を掲載しています。
また創刊以来、各時代各分野の第一人者の寄稿を掲載するという方針も忠実に受け継がれています。
ブリタニカの誇る偉大なる執筆陣の一例をご紹介します。
『バカの壁』などの著書で知られる解剖学者の養老孟司氏が、解剖学の諸分野、解剖学と教育とのかかわり、日本および西洋における解剖学の歴史、解剖学の方法にいたるまでを詳細かつわかりやすく解説しました。(大項目事典)
華麗な筆致で独自の文学世界を築きながら、みずからの政治信念により衝撃的な最期を遂げた三島由紀夫。海外にも広く知られ、近代文学史に不動の地位を築いた作家について、著名な日本文学研究家ドナルド・キーン氏が解説します。(大項目事典)
宇宙旅行、ロボット、原子力など現代科学のめざましい進歩は、SF作家によって予見されていた!読者をひきつけてやまない SFの魅力を、SF界の巨匠、アーサー・C.クラーク氏が解説。(大項目事典)
『東京物語』『秋刀魚の味』など、独自の映像美と透徹したまなざしで日本映画界に大きな足跡を残した映画監督、小津安二郎。ドイツが生んだ巨匠ビム・ベンダース監督が、その魅力と真価を語ります。(大項目事典)
独立宣言直後のアメリカで連邦制度、裁判所制度など国家の礎を築いた政治家エルズワース。その生涯と業績を、彼を敬愛しながら 1963年に凶弾に倒れた第35代アメリカ大統領ジョン・F.ケネディが詳述しました。(大項目事典)
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震。だれも想像しなかった未曾有の惨事――現地を訪ねた小説家で詩人の池澤夏樹氏が「人間の弱さと強さについて 震災後の荒野で見えたもの」と題し、日本の姿と人間の倫理について綴りました。(2012年版国際年鑑)
サッカー選手と監督、2度のワールドカップ(W杯)優勝経験をもつドイツの「皇帝」ベッケンバウアー氏。そのサッカー哲学と人生哲学はワールドカップドイツ大会の公式スローガンとなりました。「世界よ来たれ、友のもとへ」のタイトルに寄せた、熱き思いとは…。(2006年版国際年鑑)
物語成立からの千年紀を迎え、日本が世界に誇る最古にして最大の魅力的な恋愛小説は、濁世末世の現代社会になにを語りかけてくれるのか。恋愛小説の大家・瀬戸内寂聴氏が書き下ろす、「『源氏物語』千年の生命」!(2009年版国際年鑑
Past Articles
英語で書かれた最古の百科事典であるブリタニカには、
当時の時代背景をうつした興味深い項目がいくつもあります。
今日ではあたりまえに知っているような事柄も、その昔には別の解釈があったかもしれません。
時代を感じさせる、貴重なその一編にふれてみませんか?
初版(1771)
タバコの摂取法には,鼻で嗅いだり,噛んだり,パイプで喫煙するといった方法がある。小さく丸めたタバコを鼻に入れてもいい。その場合,頭痛や鼻炎を緩和させたり,呼吸を楽にするといった効果がある。これは呼吸によって,タバコの微粒子が気管と肺に入り,そこに付着して気管や肺の不快感をやわらげるうえに,痰が切れやすくなるためだ。
タバコを一晩中,鼻に入れたままにする人もいるが,この方法だと翌朝に嘔吐するケースがよくみられる。鼻からタバコを摂取する方法には,視力が落ちるという弊害もある。大量のタバコを鼻で嗅ぐと,嗅覚がそこなわれ,食欲がかなり減退することがわかっており,いずれは結核になるおそれがある。
パイプなどで喫煙すると,脳組織を乾燥させ,ダメージを与える。ボルヒはバルトリンにあてた手紙で,タバコの吸いすぎで脳が極度に乾燥した男性を死後に解剖したところ,脳が小さな黒い塊になっていたと書いている。
嘔吐剤としてタバコを利用する人もいるが,これはとても危険で,無意味な慣習だ。激しい嘔吐を招くし,気分も悪くなる……。タバコから抽出した油をネコの舌に 1,2滴たらすと,激しい痙攣を起こし,1分以内で死ぬ。この油は歯痛の治療に利用されているが,この治療法は普段からタバコを摂取している患者にしか使えない。タバコを摂取する習慣がない人に用いると,気分が悪くなり,嘔吐を繰り返すなど,さまざまな副作用が表れる。
初版(1768)
西インド諸島にある広大な地域。西経116°~138°,北緯23°~46°に位置する。半島なのか島なのかは定かではない。
第2版(1778)
アメリカ大陸にあるスペイン領の中で最北部に位置する地域。「ニューアルビオン」や「イスラス・カラビラス」と呼ばれることもあるが,最も古くから用いられている呼称は「カリフォルニア」である。カリフォルニアという名前は,何かの事件や出来事に由来するものか,インディアンの言葉を誤解したスペイン人によってつけられたものだろう。長い間,カリフォルニアは島だと考えられていたが,ドイツ人のイエズス会士カイノの報告によって,ニューメキシコの海岸やアメリカ南部と地続きの半島だということがわかった……。
カリフォルニアは端から端までの距離が約1300kmに達するので,場所によって土壌や気候は大きく異なるに違いない。実に緑の美しい土地がある一方で,荒涼たる砂漠がいくつも存在するということは,確かな資料から明らかだ。イエズス会士ビネガスら信頼できる人々の報告によると,カリフォルニアには荒れ地や岩場が多いが,文化的な生活になじんだ人が必要とする物もすべて入手可能だし,決して不便な場所ではない。気温の高い地域もあるが,心地よい風が海からの湿気を吹き払い,厳しい暑さを和らげてくれるという……。
第4版(1810)
1789年7月14日にパリの民衆によってバスティーユが占拠されたことは,まだ記憶に新しい。民衆が監獄を占拠したとき,とらわれていたのは 7人だけで,非人道的な迫害を受けていたようにみえる人は皆無だった。
第4版の「バスティーユ」の項目には,民衆の蜂起についてこのような説明しかないが,「フランス史」の項目には詳しい記述がある。バスティーユは,パリの民衆の激しい怒りの標的となった。午前11時,ド・ラ・ロジエールは民衆の代表者の先頭に立ち,バスティーユの M.ド・ロネ司令官を待っていた。司令官は,攻撃されないかぎり,民衆に発砲しないと約束した。だが,約束をかわしたすぐ後,民衆をバスティーユの中に案内してから,態度を翻して人々を虐殺したという話がパリ中に広まった。
このあたりの経緯は,いまだに明らかになっていない。バスティーユ側はこうした事実はなかったと主張しているが,当時のイギリス大使は,虐殺が起こったのはまちがいないとフランスの法廷で証言している。
虐殺の話が伝わると,民衆の間にバスティーユを襲撃すべきだという声が高まった。彼らはバスティーユの外庭に突入し,そのまま建物内部に入って,中庭になだれこんだ。それから 1時間にわたって激しい戦いが繰り広げられた。すでに民衆の側に立っていた兵士が,冷静かつ巧みに攻撃を指揮した。彼らはわらを積んだ 3台の荷車を壁の近くに並べ,火を放った。バスティーユ側の兵士は煙で視界を失ったが,壁から離れていた民衆が混乱することはなかった。包囲された多数の民衆は反撃に転じた……。