NHK大河ドラマ「どうする家康」。主人公は、言わずと知れた江戸幕府の初代将軍、徳川家康。みなさんが家康にもつイメージとはどのようなものでしょう? 「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」の句に象徴されるように、多くの人がその「忍耐強さ」をまずあげるのではないでしょうか?
この性格が形成されたのは、幼少期の体験が大きく影響しているともいわれています。家康は6歳から19歳になるまで、実に十年以上もの長い歳月を人質として隣国で過ごし、いつ殺されるかわからない人生を歩んでいました。
1542年、家康は三河国〈現在の愛知県東部〉の小さな戦国大名、松平広忠の息子として生まれました。家康が生まれたころの三河は、東は駿河国〈現在の静岡県中部〉と遠江国〈現在の静岡県西部〉を治める今川義元に、西は尾張国〈現在の愛知県西部〉を治める織田信秀〈織田信長の父〉にはさまれ、領地が常におびやかされていました。
家康が3歳のころ、父と母が離縁し、その後大人になるまで母とはずっと会えませんでした。家康は6歳で織田氏の人質となって、尾張に連れていかれます。8歳のときには、今度は今川氏の人質になって駿河に移り住みました。このころ、父が家臣に裏切られ、殺されてしまいます。父が亡くなったあとは、今川氏に岡崎城を支配され、松平家の家臣も今川氏の配下に置かれて、筆舌に尽くしがたい苦労の日々を過ごしました。
家康は、今川義元のもとで元服していますが、このときの名を「元信」といい、今川氏の軍勢として初めて戦に出たころには「元康」と名乗りました。これはいずれも、義元の「元」の字を受け継いだ名前です。
1560年に、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れると、ついに家康は人質の身から解放されます。19歳で岡崎城にもどった家康は、今川氏と縁を切ると、織田信長と同盟を結びました。このとき、名前から「元」の字を消し、「家康」と名乗るようになったのです。
こうして幼少期から青年期までをざっと見ても、かなり壮絶な人生といえます。家康の忍耐強さの原点が、辛酸をなめ続けた幼いころの日々にあるというのは、納得がいきますね。大河ドラマでも、過酷な運命に翻弄されながら、ぎりぎりのところで人生の大きな選択をしていく若き日の家康が、これまでにないナイーブな人物像で描かれています。
小中学校の授業を支援するデジタル教材「ブリタニカ・スクールエディション」では、ここで取り上げた徳川家康のほか、小学校の学習指導要領で重点的に学習するよう明示されている歴史上の人物42人について、特に詳しく説明しています。
人物の働きを通して、当時の時代背景がわかるように丁寧に解説しているのが特長です。また、人物にまつわる興味深いエピソードもたくさん載せています。
小学校の社会科では、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の戦国時代を代表する三武将について調べ、比較する授業も多いと思います。そうした学習活動にもぜひお役立てください。
文中のリンク先をご覧になるには、ブリタニカ・スクールエディションへのアクセス権が必要です。
ブリタニカ・スクールエディションは、小学校、中学校など教育機関で利用されているオンラインのデジタル教材です。