そもそもマケドニアとは、バルカン半島南中部の地域をさし、その呼称は、かのアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)を生んだ古代のマケドニア王国に由来します。本来のマケドニア王国は現在のギリシア北部を中心とする地域であり、ギリシア人はこれを自国の栄光の歴史として誇りに思っています。
紀元前2世紀にマケドニア王国が衰退して以降、この地はさまざまな国に支配されたため、その境界線も民族も時代によって複雑に変化しました。20世紀に入るとバルカン戦争が勃発し、最終的にこの地域の南半分はギリシア、北半分のほとんどはセルビア、残りの北東部はブルガリアに分割されました。このうち、セルビアに分割された地域は、第2次世界大戦後、ユーゴスラビアを構成する共和国の一つとなり、1991年のユーゴ解体に伴って「マケドニア共和国」として独立しました。
しかし、ここで、マケドニア地域の南半分を領有するギリシアが文句を言ってきました。「マケドニアという名称はギリシアの歴史に由来するのだから、勝手に使うな」というのです。また、「その国名は、ギリシアに分割された土地も併合しようとする野心の表れではないか」とまで主張してきました。さらに、その国旗がアレクサンダー大王がシンボルとして用いた「ベルギナの星」だったため、ギリシアの歴史を盗んでいると非難し、マケドニアに国名と国旗の変更を要求するとともに、国際連合への加盟を阻止しました。
ギリシアはまた、民族的な面からも意義を唱えました。現在のマケドニア人は6~7世紀に入植したスラブ人の系統で、旧ユーゴ時代に構成共和国となったことで国や民族といった意識が高まり、自分たちはマケドニア人であると認識するにいたった人々です。つまり、古代のマケドニア人とは民族的につながりがありません。スラブ人国家がマケドニアと名のることに反発を覚えるギリシア人は少なくないのです。
マケドニアは結局、国旗を変更し、国連への加盟の際には「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という、なんとも長い暫定名称を用いなければなりませんでした。
とはいえ、この地も地域としてのマケドニアの一部であることに変わりはありません。自分たちで国名を決める権利はあるはずです。国内では国名を変更することに反対する意見が大半を占め、民族主義者のなかには、ギリシアとブルガリアに分割された地域も併合してマケドニア統一を目指すべきだ、と主張するものもいました。また、民族主義的傾向の強い「マケドニア内部革命組織・マケドニア民族統一民主党」が政権与党となり強硬姿勢をとったことも、ギリシアとの対立を深める要因となりました。
ギリシアは国名の代替案として、古代マケドニアの北の地域を示す「ダルダニア」や「イリュリア」、地理的意味合いの「南スラビア」や「南セルビア」、修飾語をつけた「北マケドニア」や「新マケドニア」など、さまざまな名称を提案をしましたが、マケドニアはこれを却下し、話し合いは平行線をたどりました。
長年の膠着状態に転機が訪れたのは、マケドニアで政権交代が起こったことによります。小国マケドニアにとってヨーロッパ連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)への加盟は経済面・外交面で大きなメリットがあり、悲願でもありましたが、ギリシアの反対によってずっと加盟できずにいました。
しかし2017年、中道左派の「社会民主同盟」が政権を担うようになると、EUとNATOへの加盟を優先課題に掲げ、ギリシアとの関係改善に乗り出したのです。ギリシアもこれには肯定的な態度を示し、2018年6月、「北マケドニア共和国」に国名変更することで合意しました。
マケドニア国内では国名変更への反対も根強く、一方でギリシア国内では国名にマケドニアという名称が残ることに対して不満も多かったのですが、互いにある程度妥協することでひとまずの決着をみました。しかし、この問題を振り返ってみると、民族的・国家的アイデンティティとは、社会的に構築され、政治的な意図で使われるものなのだと、改めて考えさせられますね。
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